カマタマーレ讃岐

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高商OBサッカークラブ時代
1956年に結成された高商OBサッカークラブが前身である。高松商業高校サッカー部員であった私は卒業後(1974年)にこのチームに所属した。1977年度に創設された第1回四国サッカーリーグに参加した。


第2回四国サッカーリーグでの戦績不振で、香川県サッカーリーグ1部に降格した。しかし、もう一度四国リーグで戦いたいとの思いからキャプテンとして2年間香川県1部リーグで戦った。1980年度県リーグで優勝を果たし、1981年四国リーグに昇格、その後県リーグに降格した歴史はない。私は第5回四国リーグで現役を引退した。

香川紫雲フットボールクラブ時代
1991年東四国国体の選手強化を目的にクラブを香川県サッカー協会に貸与し、名称は香川紫雲クラブと改称した。紫雲という名称は高松商業同窓会の紫雲会からきている。増田OB会会長から私への要請で四国リーグで活躍継続できなくなる選手の受け皿として、新たに高商OBサッカークラブを創設し、香川県3部リーグからスタートさせた。(現高商サッカークラブ)香川紫雲フットボールクラブは東四国国体成年2部で優勝を果たし、香川県の国体総合優勝に貢献した。1994年及び1997年には四国リーグで優勝を果たしている。
サンライフフットボールクラブ時代
2000年、サンライフとスポンサー契約を結び、サンライフフットボールクラブと改称した。
高松FC時代
2004年、子どもの夢、都市の魅力、町の誇りを目指し、Jリーグチームを香川の地に作るため、元高松商業高校監督の山下憲一氏と相談し、新チームを始動させた。
2005年春、アルビレックス新潟の池田社長を講師として来高いただき、Jリーグ立ち上げ手法について講演をいただくことになったが、支払う交通費や講演料がなく、とりあえず立替払いをしなければならないクラブ経営であった。
初年度のスタートは手探り状態、運営費の目途が立たない中での見切り発車となった。チーム名は暫定的に高松FCとし、年度中に公募により、新チーム名を募集することとした。監督はこれまで通り土居幹夫氏にお願いした。彼の情熱は創設期において大きな機動力となった。初年度の事業費は約500万円で決算した。

カマタマーレ讃岐が発足
2006年、カマタマーレ讃岐の名前が四国リーグの歴史に加わった。釜玉うどんに瀬戸内海、香川のチームとして長く愛されるチームがリニュアル始動した。運営母体としてNPO法人カマタマーレスポーツクラブを創設、700万円の借り入れを行い、2年目のカマタマーレは四国リーグで優勝したが、地域決勝大会において予選リーグで敗退した。

2008年、住谷の友人を中心として出資者を募集、4000万円の出資金を集めた。資本金2000万円で株式会社カマタマーレ讃岐を設立し、クラブの運営をNPO法人カマタマーレスポーツクラブから同社へ移管した。羽中田昌が監督に就任。四国リーグで4回目の優勝。地域リーグ決勝大会は予選リーグで敗退。

2010年、スポーツ少年団時代の教え子である
北野誠が監督に就任。西日本社会人大会社会人選手権大会で優勝。四国リーグで5回目の優勝をして出場した地域リーグ決勝大会で優勝し、12月8日に(JFL)理事会で香川県のチームとして初となるJFLへの入会が承認された。代表取締役社長の熊野實が体調不良により退職を希望したため、当時高松市議会議長の職にあったが、5回目の高松市議会議員選挙出馬を断念、2011年1月に代表取締役社長に就任した。2月にJリーグ準加盟クラブとして承認された。

JFL時代
2011年、成績以外のJ2リーグへの昇格基準をクリアした。リーグ戦は前期第16節(9試合目)時点で暫定首位に立ったが、後期第12節以降の終盤10試合で勝利がなく(3分7敗)、最終順位は11位となり、昇格できなかった。

2012年、北野体制3年目。Jリーグクラブライセンスを申請するが、財務状況や育成強化面の問題などから審査結果公表直前の9月27日にライセンス申請を取り下げた。増資により債務超過約700万円を解消するため、香川県、高松市、丸亀市、百十四銀行、JR四国、多田野鉄工などに出資を要請、その結果香川県の2013年度予算に3000万円の支援が決まった。リーグ戦は前年より7つ順位を上げて4位の成績。第92回天皇杯は2回戦でJ1のサガン鳥栖に勝利した。

2013年、北野体制4年目。香川県から株式会社カマタマーレ讃岐への出資に対し、香川県知事から議会対応として社長退陣の協力を要請され、経営難の責任をとる形で社長を引責辞任、代表権のない相談役に異動した。本年12月、カマタマーレ讃岐は念願のJ2昇格を果たした。